三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

ビルと電車の風景との融合―エレファントカシマシ「武蔵野」レビュー

2017年の日比谷野音で開催されたライブで「武蔵野」が演奏された時である。日比谷公園の自然とビル群の風景に、曲が溶け込み調和していく感覚を覚えた。というのも宮本は、曲が始まる前に、

甲州街道を僕は行く
あゝ遠くの山まで 山まで行く

こんな歌詞で即興の歌を歌った。さらにイントロ中、
「日比谷野音 海だったといいますよね どんな場所だったんだろうなぁ」
このように呟いていた。後に調べてみると、日比谷公園の周辺一帯というのは1590年頃、日比谷入江という海が入り込むような場所だったという。それが徳川家康政権の埋め立て政策により、どうやら現在のような地形になったようである——。ちなみにこの時の音源はシングル「RESTART/今を歌え」の初回限定版のボーナスCDに収録されている。

海の痕跡が残る-日比谷公園 – edo→tokyo 

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俺は空気だけで感じるのさ
東京はかつて木々と川の地平線
恋する人には 輝くビルも
傷ついた男の 背中に見えるよ

汚れきった魂やら 怠け者の ぶざまな息も
あなたの 優しいうたも 全部 幻 そんなこたねえか
武蔵野の川の向こう 乾いた土
俺達は 確かに生きている

楽曲に登場する"俺"は、東京のかつての風景、つまり「武蔵野」の風景を今現在、その場にいるだけで想起し、感じることができると言っている。過去の歴史〈傷ついた男の背中〉や〈汚れきった魂〉がはっきりとあって今の自分がいる。"俺"は東京のかつての風景をたどり、儚く散った者たちを思いながら〈今ここに自分がいる〉ということを再認識しようとしているのである。「武蔵野」という曲名だけあってかつて、武蔵国の地であった風景とよく似合う。それは歌詞だけではない、機械的なドラムのリズムは何となく電車の中で揺られているような錯覚をさせる(PVだと宮本はなぜか電車に乗っているのではなく車を運転している)。曲を聴くとたちまち、電車の窓から関東平野にどこまでも広がっていく新旧の住宅街や、高さも作りもまちまちのマンション。そこにアクセントを加えるかのように河川敷で野球をやっている少年たちの姿、そんな風景が見えてくるようであった。東武線だとか、武蔵野線とかのあの辺りの風景だ。

 

ライブの曲と風景が溶けていった感覚、曲を通じて電車から見える風景が想起された感覚。それはこの曲が持つ"東京の下町感"のようなものと関係しているような気がする。"隠れた名曲"とはまさにこの曲のことを言うようなものだと思う。

 

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