三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

【ほぼ日刊三浦シアター4】救いの手、一切無し―『炎628 (Иди и смотри)』(1985) レビュー

すさまじい映画だ。1つの救いもない。希望を感じる暇すらない。例えるとしたら、地獄に落ちたかと思えば更なる地獄が待っていて、そこから這い上がることすら許されないというような感じだ。そして、それは決して夢ではなく、全て現実であるということが淡々と示される。登場する人間達の生気は、"戦争"という何よりも大きな存在によって吸い取られ、感情は欠落し、ロボットに等しくなっている―。

 

映画の舞台は1943年の第2次世界大戦、ナチスドイツの占領下のベラルーシ(旧白ロシア)。主人公の少年フローリャはパルチザン(一般民衆によって組織された非正規軍)となる。しかしながら、子供だという理由で戦争には参加することができず、パルチザンの本拠地に取り残されてしまう。そして自分の情けなさに彼が落胆してさまよっていると、同じく本拠地に残されていた少女グラ―シャと出会う。だがそんな出会いもつかの間、本拠地はアインザッツグルッペン(ナチス親衛隊の特別行動隊)の手によって瞬く間に攻撃されてしまう。そんな2人は必死になって本拠地から逃げる―。

 

フローリャは強く生きようと、希望を見出そうと必死にもがく。だが、そんな彼の努力の芽はドイツ軍によってとことんついばまれてしまう。家族もろ共焼き払われてしまった故郷の村。パルチザンとして奮起するも、力及ばずドイツ軍の手によって息絶えてゆく仲間たちの姿。逃げ延びた先の村で目の当たりにしたロシア人の大量虐殺。彼は絶望の果てをさまようのであった―。

 

そんな悲痛なストーリーに拍車をかけるのは、音響効果のすさまじさだ。主人公の1人称視点の効果音は、異様なほどに生々しく刺さってくる。フローリャがグラ―シャと共にパルチザンの本拠地から逃げる様にして家に戻ると、いるはずの母親と双子の姉妹はいない。代わりには、乱れた食器と飛び回る無数の蠅、そして姉妹が遊ぶ人形が無造作に置かれているばかりである。そんな家の中のシーンでは蠅の羽音が聞くに堪えない不快な音へ増幅されて流れる。

 

家の中の不穏な雰囲気をかき消すようにフローリャは平静を装うが、やがて平静の糸はプツンと切れ、同時に異変の渦が襲い掛かってくる。家族が虐殺されたという現実を受け入れられないフローリャ。彼は叫びながら家を出ると、今度はグワングワンと渦巻くようなフェイザーがかかったフローリャとグラ―シャの叫び声が流れる。これも聞くに堪えない悲痛な叫びである。

 

また、終盤のロシア人を虐殺するシーンでは、ロシア人の叫び声とは裏腹の楽しげなドイツ兵の声とが混じりあう。そしてさんざんやりたい放題やった後、村を去るところでは軍用車両のエンジン音に強姦される少女の悲痛な叫び声が入り混じる。それらは、不協和音にも似ても似つかないおぞましい音となって観るものに訴えかけてくる—。

 

フローリャ演じるアリョーシャ・クラフチェンコの演技のすさまじさも、映画の輪郭を形成していると言っても過言ではない。彼が打ちひしがれ消沈してゆく様は、感情移入せざるを得ないほどの雰囲気があって、映画をたちまち更なる悲痛なものへと昇華させている。

 

そんな本作、何よりも恐ろしいのは、パルチザンによって捕らえられた1人のドイツ兵の言う、「子供から全てが始まる、生かしておけない。貴様らもみんな死ね、貴様らの民族に未来はない。共産主義は下等人種に宿る、絶滅させるべきだ。必ず遂行する。」というセリフだ。非人道的な行為、しかしながらそれを遂行した人がいるという事実。このセリフからは、その行いを"正当化する"という以前にどこか"洗脳的"なニュアンスの不気味さが感じられる。"洗脳"によって人間性の失われたドイツ軍の兵士達は大量のロシア人を小屋に閉じ込め、そこに火炎瓶を投げつけ、さらには火炎放射器で焼き尽くす。人間これほどまでに残虐になれるのかというくらいに散々な仕打ちを加える。だが、それを遂行するものにとっては、残虐であるという意識は微塵もない。ドイツ兵たちは村が燃えるのを見て悲観することは一切なく、ただただ満足げに笑うだけなのである—。

 

『炎628 (Иди и смотри)』、起承転結全てにおいて救いの手が差し伸べられることは一切ない。あるのは人間の底知れぬ恐ろしさだけだ。そして、それが少年の1人称視点によって極めて生々しく淡々と描かれる。これ程までに精神をえぐってくるような作品があるだろうか。悲しみや痛みの感情は一線を越え、涙すら出てこない。それ以上に、憎悪の感情が、ただただ重たく圧し掛かってくるのである。

 

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