三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

折坂悠太の「さびしさ」を形作る"さびしさ"について

数か月前、「岡村詩野音楽ライター講座」なるものに参加をしたときに書いた原稿が、拙文ながらも載ってしまった。下に記したリンク先の2番目に、不肖登場いたします。こちらの方はどうか、他の方の原稿の片手間程度に読んでいただければ幸いです。で、今回のこちらの記事はと言うと、折坂悠太の「さびしさ」についてもう一つ違ったテイストの原稿を考えていたために、それをここに載せてようという次第です。

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どこかで聴いたことのあるような懐かしい曲だ。それはファンタジックな画風のアニメの世界だったかもしれない。あるいは、いつか行った街の外れにある喫茶店だったかもしれない。ただ、そんな「さびしさ」は、聴き終わった後きまって、得もいえないさびしさを掻き立てられるのだった――。

 

「さびしさ」は全編を通じて日本語で紡がれている。折坂は、砂浜に書いてある文字が、高波に呑み込まれ消えゆく様を、擬人化をもって表現する。それは、客観的にみたときの波の躍動感とは裏腹の、親和的に自然と寄り添う俳句の一節のような描写だ。そんな訳で、<海>はヤシの木ではなく、松の木々が連なった日本の浜辺の風景を色濃く想起させる。<御堂>は、海に突き出すように建った浮御堂のことだろうか。

 

折坂の詞は、日本人の共通のコンテクストとしての"無常観"や、"もののあわれ"を連想させる。それを助長するかのように、詞は終わりの頃を迎えると突然、七五調へと転換する。しかも折坂はそれを音に乗せず、語りかけるかのように歌う。そこには幼い頃から馴染みのある唱歌や童謡に似た優しさとノスタルジーのようなものがあった。そしてそれは、どこかで聴いたことのある懐かしさすらも思い起こさせるのだった。

 

"平成"という一つの時代が終わり、次の時代へと移るというときに、忘れ去られてゆくもの、あるいは生まれてくるもの。そこで生まれるのは「"あの頃"の日本は良かった」などという言葉かもしれない。この曲の"さびしさ"とは、そんな失われつつある原風景的な日本の姿を、そして終焉を迎える平成という時代を、憂う感傷的なものによって形成されているのかもしれない。【ほぼ日刊三浦レコード66】