三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

反俗的な日常を描く——エレカシ全作レビューⅢ『浮世の夢』

エレファントカシマシの初期の作品はパンクである——。一般的にはそのように形容されることが多いように思えるが、1989年リリースの彼らの3rdアルバム『浮世の夢』は、世間というものに対してメッセージをぶつけるような"パンク・アルバム"ではない。ひとまず肩の荷を下ろし、日常的なものに根を張った日記のような体裁を持っている。そしてその手法というのは、明治期の無頼派の作家のような、かなり反俗的なものである。

 

たとえば『「序曲」夢のちまた』、クラシック旋律のようなギター・アルペジオに続いて、ある春の一日、暗い部屋で思いにふけっている青年が登場する。どこへ行こうか、不忍池に出かけてみようか——。だが結局のところ、一日なんて言うのは夢のちまたへと忘れてしまうものである、と当てもない感情に至る。それを嘆くように終盤の節では、

ああ 今日も夢か幻か ああ 夢のちまた

と、急に沸点を上げ叫びあげる。続く「うつら うつら」でも一人称的な視点が垣間見える。ベランダから見える、雀のかわいさを眺め、視線を下に移せば車の走っているのが見える。炬燵にくるまってしばらく、屋上に行けば富士が見える。これは、太宰治の『富嶽百景』のような、富士の山を取り巻いている東京、あるいは日常の風景の視点に通ずる。さらに、「珍奇男」や「浮雲男」でみられる自虐的で、どこまでも"滑稽"な描写も、かなり反俗的であり、やはり無頼派のような風体をもっているといえるだろう。

 

また、本作の"日記"の手法には、「上野の山」のように七五調で統一されたものもある。ロックという枠組みでありながら、これによって想起させられるのは戦後の唱歌や童謡、更にはもっと遡った江戸期の戯曲のような古めかしさだ。そのため、ひとたびこの曲を聴けば、上野の山の桜の風景はビルだとか車の風景を取り巻きながら、けれども浮世絵のように切り取られているような、錯覚に陥るのであった。

 

無論、こうした手法は少なくとも、ニュー・ミュージック登場以来の邦楽にとってこうした手法というのは古典的なものであり、異彩を放っていたといえるだろう。そんな"日記"を曲へと昇華させる音の数は、前2作品と比べて極端に少ない。ドラムは、その存在を掻き消すかのようにとことんフレーズを排除し、ベースやギターもそれに追随して最低限の音をかき鳴らしていく。この閑寂とした余白を十分に含ませることで、より歌詞の筆圧をくっきりと浮かび上がらせることに奏功しているのだ。まさに現代の日常における"寂"を体現したような作品であるといえるだろう。

 

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